特別な祝日 〜 聖人の祝い日 C年 グイノ・ジェラール神父
2013年
C年
特別な祝日
聖人の祝い日
聖家族の祭日
主の公現の祝日
主の洗礼の祝日
聖母の被昇天の祝日
聖家族の祝日 2012年12月30日 グイノ・ジェラール神父
1サムエル記1,20-22,24-28 1ヨハネ3,1-2,21-24 ルカ2,41-52
19世紀の末期に、教皇レオ13世は聖家族の祝い日を定めました。 しかし全教会にこの祝日を広げたのは、教皇ベネディクト15世で1921年になってからのことです。 昔、家族は子供たちの人間的な教育と成長、また人々の集まりの場でした。 こんにちでは、子供たちは自分の考え方や好み、生き方や文化を他の違ったものから取り入れています。 現代に生きる子供たちは、自分の両親や学校環境の影響よりも、テレビや学校の仲間から感化されていることが明らかです。 両親も子供たちもお互いに自分たちを自分と関係のないものに感じているので、その結果、家族の中で無理解とけんかが溢れて来て、日常生活はとても生き苦しいものとなって来ています。
今日、両親たちは今日の福音の話のように行方不明になった子供を決して教会の中で探しません。 自分の子がどんな友達と付き合っているのか、タバコや麻薬を吸ったり万引きをしたりしていないか、学校で仲間に虐められていないか、などについて両親はとても心配します。 ところが、自分の子がよく祈っているか、赦しの秘跡に定期的に与っているか、霊的に進歩しているか、などについて悩む両親はとても少ないです。 福音書によれば、イエスは神への深い飢え渇きを養っています。 勿論イエスは安息日ごとに、熱心にナザレの会堂での礼拝に参加しました。 しかしイエスは一年に三回する巡礼の時に上るエルサレムの神殿が好きでした。 イエスが12歳になったとき、このエルサレムの神殿にあまりにも夢中になって、三日間そこに残りました。 イエスを見失ったので捜していた両親にとっては、不安に満ちたこの三日間は長過ぎました。
今日、イエスは、ヨセフとマリアが全く理解できない最初の言葉を打明けます。 「わたしが自分の父の家にいるのは当たり前です」と。 これを聞いたマリアもヨセフも呆気にとられました。 自分たちが目指す親としての権威や教育の仕方とイエスの父である神の父性の表し方の間に大きな淵が急に現れました。 イエスは愛に満たされた自由な従順によって、父なる神に自分自身を捧げることを自ら決められました。 これから先、生涯に渡ってイエスはその根本的な決定を繰り返します。 イエスは、マリアにもヨセフにも属していない、ただ私たちの救いのためにご自分を捧げる神だけに属しています。 それにも拘らず、イエスはマリアとヨセフの完璧な息子として、両親と共にナザレに帰り、両親に従いました。 この出来事以来20年以上イエスについて何も知ることが出来ませんでした。
しかし、この間にイエスは成長し続けたとルカは教えています。 イエスは知恵が増し、即ち聖霊が彼の全てを段々と満たすようになります。 イエスはまた大人の背丈が伸びるまで成長します。 恵みも彼の内でますます増えます。 言い換えれば、イエスの姿の内に彼の内面的と外面的な完成を見ることが出来ます。 神と人々の前で、マリアとヨセフに対して示す従順によって、イエスは子としての模範となり、また両親の誇りとなります。
「イエスは成長していました」この言葉が、私たちの信仰にとても大切なことを伝えます。 神は本当に人間と同じようになりました。 イエスにおいて神は幼子になって、大人の責任に従属することを決めました。 普通の子供と同じようにイエスは教育されました。 彼は食べること、歩くこと、読むこと、書くこと、そして祈ることを学びました。 神の言葉であるイエスは、ナザレの会堂で旧約聖書が述べる神の言葉とイスラエルの民の長い歴史を発見することも学びました。 イエスはナザレの村で全てを学びました。 しかし、イエスは誰も彼に教えられなかったことを知っています。 それは、自分の神の子としての立場や自分が持っている神とのユーニクな関係です。 それについて聖書がそれを証しています。 12歳になってから、イエスは急に自分のアイデンティティと自由を断言します。 自分が両親に属していないことをイエスがはっきりと教えながら、母マリアもヨセフもイエスの存在の計画に関与する権利がないことを宣言しました。
マリアは心の中に、イエスの成長に関する全ての出来事を思い巡らします。 同時にマリアは、全ての母親が行うように、イエスに対して母の責任を果たしています。 丁度、普通の家庭と同じように聖家族も厳しい試練や無理解、別離の悲痛さ、断腸の思い、貧しさ、不安にさらされています。 聖家族は決して理想的な家庭ではありません。しかし、聖家族は神の内にだけ自分たちの信頼を置いているので、現代に生きる人々のためにも模範的な家族として提案されています。 私たちの家庭は度々浮き沈みと出会い、また解決できない問題や争いに曝されています。 それにも拘らず、私たちの家庭も「聖なる家庭」となるように召されています。 マリアとヨセフの取り次ぎによって、神が絶えず私たちに与えて下さる様々な恵みを発展させる助けとなりますように。 聖家族の保護の下に私たちも神と人々の眼の前で「知恵が増し、恵みに満たされた状態で愛されている人」となりましょう。 アーメン。
主の公現 2013年1月6日 グイノ・ジェラール神父
イザヤ60,1-6 エフェソ3,2-3、5-6 マタイ2,1-12
今日の福音の個所を書くことによってマタイは互いに相反する二つの世界を見せようとしました。 イエスの誕生を前にして、イスラエルの民の責任者たちは不安や無関心や妬みの気持ちを表します。 反対に、遠くから来た外国人たちが持ってきた宝物を通して、彼らが抱いている喜びや魂の気高さや礼拝を示しています。 ある人々とっては幼いイエスは邪魔な者で、別の人にとってはイエスは自分の人生の思いがけないチャンスです。 では、皆さんはどちらでしょうか?
「国々はあなたの照らす光に向かい、王たちは射し出でるその輝きに向かって歩む。 目を上げて、見渡すがよい。みな集い、あなたのもとに来る。」 遠くから来た占星術の学者たちは預言者イザヤの預言を実現しています。 占星術の学者たちは「時が満ちている」ことや「救いの時が始まった」ことも告げます。 使徒パウロもエフェソの教会への手紙の中で、異邦人たちに福音の良い知らせと救いの恵みを伝えるために、自分が神から選ばれたことを非常に喜んでいます。
イエスの所まで辿り着くために占星術の学者たちは小さな星の導きしかありませんでした。 私たちには、イエスを見つける為に聖書のテキストや教会の証しや洗礼の時に受けた信仰の賜物があります。 私たちはイエスのいる場所をすぐ見つけることが出来ます。 そして、自分自身をイエスに捧げることによって私たちがイエスに最も良い贈り物を差しあげることをよく知っています。 ところが、私たちはイスラエルの民の責任者たちと同じように、知識だけで行動しない人となっているのではないでしょうか? 私たちは復活されたキリストと、どんな繋がりを持っているでしょうか? クリスマスの夜から信仰の内に進歩をしているでしょうか? キリストとの出会いのお蔭で私たちは「習慣の道]を避けて、見知らぬ新しい道を選ぶことが出来るようになっているでしょうか?
聖マタイは占星術の学者たちとの出会いについて、聖家族が持っていた感情を記述しませんでした。 占星術の学者たちから受けた宝物で、ヨセフとマリアは何をしましたか? 多分エジプトの亡命中の生活のためにそれらの宝物を売ったでしょう。 大切なことはこの事ではないので、聖マタイはそれについて何も言いませんでした。 それよりも私たちが、ヨセフとマリアのように、イエスの誕生の神秘を歓迎するように聖マタイは希望しているからです。
主の公現の祝日は、全ての人の救いのために母マリアの子を通して人間になった神の現れの祝いです。 神の救いは選ばれたほんの少しの人々の為ではなく、またイスラエルの民だけの為でもありません。 神の救いは全ての人の為です。 キリスト者である私たちは、主の公現のメッセージを告げ知らせる使命があります。 「神は全ての人が救われるようになることを望んでおられます」(1テモテ2,4)。
主の公現はまた、自分の人生を完全に生きるために神を探し求める人の祝い日です。 更に、主の公現はご自分の命を与え、あずからせる為に人々を探し求める神御自身の祝い日です。 神はいつも、先に人を探し求めることを絶対忘れないようにしましょう。 人が神を見つけることが出来るように、神はいつも目に見えるしるしを与えられます。 ちょうど占星術の学者に現われた星のようです。 しかし、私たちは神が歩む道に置かれるこの小さなしるしに対して、十分に注意深くなっているでしょうか? 自分の人生の中におられる神の現存を見つけさせる神に、摂理の恵みを十分に感謝しているでしょうか?
占星術の学者は私たちに三つの大事なことを教えています。 先ず、私たちが絶望せずに一生懸命に忠実に神を探し求めること。 次に、神を探し求めることは危険のある冒険ですが、さ迷うことのないように神が必ず目に見えるしるしによって私たちを正しく教え導くこと。 最後に神がおられると普通思っている所には神おられないことを占星術の学者たちは教えています。 確かに、占星術の学者たちは、イエスをエルサレムと言う都に見つけると思っていました。 しかし、イエスの前にひれ伏すために、彼らはベツレヘムと言う目立たない村へ導かれました。 主の公現の日に当たって、この占星術の学者と共に私たちも自分たちの人生の黄金、乳香、没薬を主に捧げましょう。 アーメン。
主の洗礼C年 2013年1月13日 グイノ・ジェラール神父
イザヤ40,1-5、9-11 テトス2,11-14、3,4-7 ルカ3,15-16、21-22
主の洗礼は、イエスのご託身の神秘の最も単純な現れです。 事実、全人類の不幸を引き寄せる罪と悪と死を背負う為に キリストが来られました。 罪のないキリストは、神の赦しを願っている罪人の群れに自由に入ります。
イエスは洗礼者ヨハネの内に父なる神が遣わされた預言者を見分けて、ヨハネの声に従います。 回心の洗礼を受けながら、イエスは祈っています。 なぜならヨルダン川の水の中に入る事によって、イエスは全人類の罪を担う「神の小羊」となる事を知っているからです。 反対に、受けた洗礼によって私たちが、キリストの死と復活に与ったのは神の愛する子となるためです。
イエスは洗礼を受けてからも祈り続けます。 祈っているうちに聖霊が降る事によって、普通の人間として見られているイエスが、神の子である事を保証します。 私たちも罪人でありながら、絶えず教会の秘跡によって清められている事を聖霊が保証しています。 洗礼を受けて神の子となった私たちは、悪と聖性の2つの淵の間に揺れ動きます。 一歩一歩進みながら私たちは、神を選ぶのか、否定するのか、を選択しなければなりません。 しかし、よく祈る事によってイエスの足跡を辿りながら、私たちは安全な道を歩んでいることを確信しています。 この道は狭くて整備されていなくてデコボコであるかも知れませんが、この安全な道は必ず永遠の命と幸せに私たちを導いてくれます。
今日イエスは私たちに回心の一つの面を見せています。 まず、イエスは天の父と私たちが、子としての対話をするように道案内をします。 つまり、私たちが子として父なる神に向かうために、自己中心から離れる事です。 主キリストはいつも私と共におられる理由とは、私たちがイエスの祈りに一致することを学ぶ為、そして私たちに本当に神の愛する子であることを発見させ認めさせる為です。
神の愛と聖霊の力は、イエスがこの世界に入り込むように強く後押します。 人々を解放し命を与えるイエスは、特に貧しい人、小さい人、病気の人、悪霊に取りつかれた人の方へ近寄ります。 苦しみ、貧しさ、戦争、自然災害に傷ついたこの世界に慰め主としてイエスは遣わされています。 何処へ行かれてもイエスは預言者イザヤの預言を実現しようとします。 良い牧者として神の民を見守り、慰め、罪を赦すためにイエスは聖霊で満たされて来られます。 しかし、イエスは私たちの方からも、同じ事をするようにと要求します。 私たちの目や手や心を使ってイエスはもっと人間的であり、兄弟的な世界を形づくりたいのです。 確かにイエスは私たち皆を、「慰め主」へと変化させたいのです。
「正しいことをすべて行うのは、我々にふさわしいことです。」(マタイ3,15)とイエスは洗礼者ヨハネに言いました。 神の救いが全人類の真っ只中に実現されています。 神は人間と同じようになる事を選び、私たちに神の子の資格を取り戻させるために遜ってご自分の身に、全ての罪を背負いました。 神が完全に私たちの状況に与っているからこそ、全ての人、また人の持っている悪も 神の救いの焼き印で深く刻まれています。 今日、天が開くのはご自分の子イエスを通して、私たちを救う神の喜びを伝えるためです。
キリストの洗礼のうちに、慈しみと命の分かち合いの神秘があり、また私たちの人生の変容の神秘もあります。 なぜなら、主の洗礼によって私たちが神の親密さの中に招き入れられるからです。この秘められている、中々近寄れない親密さの中に、父なる神はご自分の子イエスに次のようにささやきます。「あなたはわたしの愛する子、わたしの愛をすべてあなたの内に置きました」と。
5世紀のアレキサンドリアの聖シリロは、ヨハネによる福音の説明をした時、次のように書きました。 「時の始まる前に、ご自分から生まれた神である方が今日生まれました(詩編2,7)と言われた父である神は、私たちを養子として受け入れるためでした。 それは、キリストが人間として、人間性の全体を受けとられたからです。 これと同様に、御子が聖霊を自分のものとして持っておられるのに、父なる神は私たちがキリストにおいて聖霊を受けられるために、その霊を新たにキリストにお与えになると言われています」と。 ですからキリストの洗礼によって、私たちをご自分の愛する子へと変容させてくださった神に、心から感謝しましょう。 アーメン。
聖母の被昇天 C年 2013年8月15日 グイノ・ジェラール神父
黙示録11,19;12,1-6,10 1コリント15,20-27 ルカ1,39-56
聖母の最も古くて大切な祝い日は、年の初めの元旦を祝う「神の母」の祭日です。 マリアの被昇天は20世紀の祝いであり、“神の母”と“人間の母”としてのマリアの役割を特に目立たせます。 マリアのベツレヘムとナザレの隠れた生活、カルヴァリオの苦しみ、初代教会の信者と共に祈った執り成しの祈り、即ちマリア様の全生涯は神の栄光の内に高く上げられています。
実は、マリアの被昇天は、イエスの復活の拡張と延長です。 と言うのは、すべての人と同様に、また自分の子イエスと同様に聖母マリアも死に、ある墓に葬られました。 しかし、イエスが復活したように、そして私たちも希望としていつか復活するように、神はマリアの体の復活を望みました。 全人類の初穂としてイエスは先ず最初に復活しました。 ミサの典礼が教えているように聖母マリアは「教会の初穂として」体も魂も共に天の栄光に上げられました。
キリストの復活は、私たちが宣言する信仰の中心です。 キリストの復活の目的と言えばすべての人の体の復活です。 そう言う訳で、母マリアの被昇天は主イエスの復活の内にその出発点があります。 従って今日確かに、私たちはマリアの内に延長されている復活祭の喜びを祝っています。 ただし、この祝いは、私たち自身皆が復活する時に完成されます。
ですから、もしマリアに倣って私たちの心がいつも神の光に向けた状態を保つなら、神の栄光の内に高く上げられた無原罪のマリアのように、清いマリアの被昇天は私たちの祝いとなります。 もしマリアと同じように神の言葉を聞き守るなら、栄光で満たされたマリアの人生の最後が私たちの人生の最後になるに違いありません。 なぜなら、それが神の唯一の望みですから。
マリアの偉大さは、天使ガブリエルの言葉を信じ、喜びと苦しみを通して、神に対する揺るぎない信頼の内に自分の人生を築いたことです。 福音に書かれているように「マリアはすべての出来事を心に納めて、思い巡らしていた」(ルカ2,19)とルカは繰り返します。 すべての出来事を成長させ、その実を実らせるために、マリアは心の中ですべてを神の賜物として育てました。
マリアの偉大さは、彼女もまたイエスの弟子のひとりでした。 使徒たちと共にマリアは注意深く自分の息子の教えに耳を傾け、その教えを生きて行く中で実現します。 イエスが自分の内に肉となった神の言葉であることを、マリアはよく知っているからです。 マリアは自分の心にすべてを、十字架の苦しみでさえも納めていたので、真に幸せな方であり、すべての女の内で恵みに満たされた方であります。 確かにマリアにとって すべては神の賜物、神の恵みでした。
マリアに倣って、私たちも日ごとに神の言葉を心に受け止めることが出来ますように。 聖母マリアが絶えず私たちを守り、導き、特に神を愛すること、神の愛のしるしを見分けることを教えて下さいますように、母マリアの愛する子供として切に祈りましょう。 更に、いつか天の栄光の内に 母マリアに追い着きますように、聖霊が私たちに聖母を模範とする賢明さを与えて下さいますように。 アーメン。
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